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爻辞
爻辞は、周の文王の子で、魯の国祖、周公旦の作と伝わり、また象辞とも言い、卦中の爻の意義を書いたものである。
初九
初九、无妄、往吉、
象曰、无妄之往、得志、
【書き下し】
初九は、无妄なれば、往すこと吉なり、
象に曰く、无妄の往とは、志を得るなり、
初九は成卦の主爻にして剛正の徳を得ているので、妄らなところのない志を得た者である。
これは実に无妄の主爻として相応しい者である。
このように、真実に无妄である者は、公正にしてその天性を乱すことはなく、何をするにしても天の道を以ってする。
したがって、どこに往き、何事を為すにしても、吉となるのである。
だから、无妄なれば、往すこと吉なり、という。
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六二
六二、不耕穫、不菑※畭、則利有攸往、
象曰、不耕穫、未富也、
【書き下し】
六二は、耕穫するに心あらず、菑*畭するに心あらざれば、則ち往く攸有るに利ろし、
象に曰く、耕穫するに心あらずとは、未だ富むに心あらざるなり、
*畭は、正しくは余の下に田と書くのだが、JISにもユニコードにもないので、*畭で代用しておく。
耕穫は、耕し収穫すること。
菑は休耕田、*畭は耕し始めて二年目の田=最も収穫が上がるときの田のこと。
さて、この爻の辞にある「不」の字は、無心という意であり、だから「心あらず」と訓む。
これは、この卦が无妄を意味するからである。
今、この六二は中正の徳を得て、初九の剛正の无妄の成卦の主爻と剛柔正しく比している。
これは、実に公正にして、无妄=みだらなところのない者である。
みだらなところがない、というのは、無心、無欲といったことである。
したがって、農業をするときも、公正で無心に耕穫するので、耕穫の結果として得られる富=利益については、始めから気にしない。
休耕田を復活させるにしても、耕して二年目の田を続けて使うにしても、それぞれの利益を予測したりはせず、淡々と作業をする。
だから、耕穫するに不(=心あらず)、菑*畭するに不(=心あらざれば)、という。
これを人事について言うときは、何事をするにしても、天性公正自然にして、やるべきことをきちんとやるが、その結果がどうであろうと気にしないのであって、これこそ実に无妄と言うべき者である。
その无妄であることを以って物事を為すときは、自然と天性に適中しているものなので、どこへ往き何をしようと、何ら問題はないのである。
だから、則ち往く攸有るに利ろし、という。
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六三
六三、无妄之災、或繫之牛、行人之得、邑人之災、
象曰、行人得牛、邑人災也、
【書き下し】
六三は、无妄の災いあり、或るひと牛を繋げり、行人の得るは、邑人の災いなり、
象に曰く、行人、牛を得るは、邑人の災いあるなり、
およそ人が災害に遭うことは、すべて妄意妄行なるより起こるものであり、これは当然の定理にして、免れないことである。
しかし自らは无妄を心がけているからと安心してしまうのも、いささか早急である。
自らは无妄であっても、災いに遭うこともある。
これは天運の巡り合わせといったもので、偶然有ることである。
これが、无妄の災い、というものである。
今、この六三の爻は、陰柔不才、不正不中なので、この災いに罹ることが有るのである。
だから、无妄の災いあり、という。
例えば、ある人が来て、道端にある杭に牛を繋ぎ止めて、ちょっとその場を離れた。
すると、たまたま通りかかった別の行人=旅人が、その牛を杭から外して盗んでどこかへ連れて行ってしまった。
しばらくすると、牛を繋いだ人が戻って来て、牛がいないのに気付き、その邑(村)の人が盗んだのだろうと、邑人に濡れ衣を着せた。
牛を盗まれた人にとっても災難ではあるが、安易に牛から離れた自分の不注意もあることなので、自業自得だとも言えよう。
しかし、濡れ衣を着せられた邑人にしてみれば、何ら予測不可能なとんでもない災難である。
この邑人の受けた災難が、无妄の災い、である。
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九四
九四、可貞、无咎、
象曰、可貞、无咎、固有之也、
【書き下し】
九四は、貞しくす可し、咎无し、
象に曰く、貞しくす可し、咎无しとは、之を固有すべきとなり、
九四の爻は陽爻であり、上卦乾の進むの卦の一体中に居るが、不中不正である。
したがって、妄りに騒ぎ動こうとしやすいので、これを惧れ戒める。
そもそも无妄は天性公正の卦なので、貞正を拳々として服膺して終身これを固く保有せよと戒めるのであって、
だから、貞しく可し、という。
一に貞正の道を守り、騒ぎ動いて无妄の時を犯すようなことがなければ、咎もないものである。
だから、咎无し、という。
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九五
九五、无妄之疾、勿藥、有喜、
象曰、无妄之藥、不可試也、
【書き下し】
九五は、无妄にしてこれ疾むことあり、薬すること勿れ、喜有らん、
象に曰く、无妄にしての薬なれば、試ゆ可からざるとなり、
疾とは疾病のことにして、言わば災いということと同義である。
それをことさらに疾と言うのは、疾は癒えることが有ると教えるためである。
たとえば、一旦は无妄の災いが有っても、自然に消滅する、ということを知らせているのである。
そもそも九五は、中正なので、もとより无妄なるとろこの者である。
しかし、時には災難に出遇うことも有る。
これは无妄の災いにして、自ら引き起したわけではない。
例えば堯の代に七年の洪水が有り、殷の湯王のときに三年の旱魃が有り、周の文王が殷の紂王により羑里に囚われたことなどが、これに当たろう。
このような時には、あたふたと策を労するのではなく、一に正しきを守り、順受するのを道とするべきである。
病気ならば、あれこれ薬を飲むよりも、黙って寝ていればそのうち治る、といったところである。
だから、无妄にして疾むことあり、薬すること勿れ、喜び有らん、という。
これは疾と言って癒えるという字を省き、喜と言って憂うるという字を省いているのである。
したがって、詳細に言うのであれば、无妄にして疾むこと有りて憂はしけれども、妄りに薬すること勿るべし、自然に癒えて喜ぶこと有らん、ということである。
これを互文省略法という。
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上九
上九、无妄行、有眚、无攸利、
象曰、无妄之行、竆之災也、
【書き下し】
上九は、无妄のときに行えば、眚い有り、利ろしき攸无し、
象に曰く、无妄にしてこれ行うとは、窮するの災いなり、
上九の爻は无妄の時にして无妄の極に居る。
これは公正にして徳を修めるべき者である。
しかし、不中不正にして乾の進むの卦の極に居るので、道に困窮し、妄りに動き進んで无妄の時を犯し、貞節の戒めに背き、正しくない咎を履む。
したがって、自ら災難を招くのである。
だから、无妄のときに行えば、眚い有り、という。
これは凶害の甚だしいことであり、戒めないといけない。
だから、利ろしき攸无し、という。
前の卦=24地雷復 次の卦=26山天大畜
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